Le 4 mars 2012 Bombay :
ボンベイ、インド32日目。
とうとう明日は最終日となった。
でもあまりあせらないで、ひとつのものが見れればいいやと思った。
ひとつの物、それは、ガンジー記念館であった。
昨日行ったとき、タクシーを待たしてあって、ほかにも行くところがいっぱいあったので、一階だけ、丹念に見たら、次に行かねばならなくなったのだ。旦那が嫌がったら明日一人でも来るからね、、と思って去ったのだ。旦那の英語を読む速度は私の3倍ぐらい速かった。ちっ。
私は博物館とか美術館をそんなに丹念に見ないたちである。特に絵画だと、説明、読むことばかりやっていると視覚から入ってくる感性が邪魔されて、嫌なのだ。視覚から入ってくる感性がとても大切な私は、あまり絵画の説明は読まない。ほとんど無視する。それで感動したら今度は読むためだけに訪れたりするのだ。
ガンジーは私の知的好奇心を大いにくすぐる人物で、この博物館、視覚感性はあまり必要ないし、ガンジーは私が最も敬愛する人でもあった。そして彼の言葉に心底共感する一人だ。だからこの記念館は私にとっては特別であった。
ガンジー記念館は写真やジオラマで構成され、その上で非常にたくさんの読むものがある。一階には、図書館も抱えているので、その本全部を読むのは無理だが、展示の説明だけでも、ちゃんと読んだら2時間はかかるだろうと思った。
朝、一人だけで行くと告げると、引っ付き虫の旦那はいっしょに行くという。急かすのは嫌よという条件付でいっしょにいくことになった。彼は、実際急がせなかったので凄いとほめてあげたい。
結局ガンジーの博物館は昨日から数えると3回訪れた。私は、熱心なガンジー大好き人間だ。彼の無暴力で独立に導いた点に脱帽せざるを得ないのだ。彼の怒りをエネルギーに変えるということをぜひ学びたい一人だ。我慢するのでも怒りを爆発させて叫ぶのでもなく、静かにエネルギーに変える。。これをぜひ習得したい。
ガンジー記念館は素晴らしい。まずこの財団が入場料無料でこの場を提供していることに並々ならぬものを感じる。説明を求めればにこやかに丹念に説明してくれるし、館長などとも話し、すばらしい時間をいただいた。ガンジーのエスプリがここに流れていた。館長並び、すべての働いている人たちが、なんと優しい笑いをするのか。。。ちょっと感動ものだ。
ガンジー記念館は素晴らしい。それは、ガンジーに関しての写真の多さ。説明の丹念さ。階段にも一階にもいたるところの壁に何らかのガンジー情報がある。それはとても濃い情報で、感動ものだった。
ひとつ気が付いたこと。
ガンジーはすばらしい。この人がこれだけ広いインドの独立を導いた。すばらしい。しかしながらそこにはインド人の底抜けに明るく、粘り強く、そして物事をダイレクトに強烈に表現する性格がなければ、ガンジーは独立を成し遂げれなかった。インド人は凄い。政治はイーコール人である。
私もサルコジに文句言ってるだけではなくフランス国民としてなんかをしなければならないだろう。まずは祖国日本の助けになれないかと思い、無償でこの博物館の展示物の日本語訳を申し出た。翻訳はある会社が権利を握っていて、その会社に連絡を取らないといけないそうである。それでコンタクト先も頂いた。
博物館は英語とヒンドゥー語の表示になっている。私はこれほど英語を読めることに喜びを感じたことはない。反対に考えると英語が読めない日本人は、これほど楽しめないはずだ。それで私は何か役に立てないかと思ったのだ。ガンジーの言葉が広まれば絶対良い世の中になる。
しかしである。3回目の訪問をしたときに、本を売るコーナーに面白いものを発見した。私と同じことを考えた日本人が、英語のジオラマの説明をすばらしい日本語に訳した小雑誌があった。
あるじゃない。。
早速館長に、これをコピーして、ジオラマの部屋に置けばどうですかと聞いてみた。そうすれば日本人はもっと楽しめるのではないかと。
答えは、、
もう既にそれはしたそうだ。無料でコピーしたものを置いたそうだ。
ところが、ほとんどの人は興味すら示さなかったそうである。
私は日本人として穴があったら入りたかった。そういえば、英語が読めないロシア人や、フランス人やスカンジナビア人たちがやってることは、友人が訳してやってるのであった。それはそれで周りにはうるさいが、私はすばらしいことではないかと思う。そうでなければ、かじりついて英語を読んでいる姿を見た。そうでなければ写真やヴィデオを各展示ごと撮影していた。後で読もうという作戦だろう。物を知りたがるということ。それが素晴らしいのではないか?
反対に日本人を含むアジア人はみんなで記念写真を取り合って終わってしまう。集団写真の取り合いでうるさい韓国人などに遭遇した。日本語の話せるガイドとともにきた日本人2人は、ガイドに質問すらしなかった。なんとも悲しい光景である。
ガイドのインド人は私に言う。
「あなたが日本語に訳したとしても彼らは興味示さないわ。彼らは30分いたらいいほうだもの。。。」
私は日本人として恥ずかしいです。と館長に私は言った。
館長は実に優しい微笑を浮かべながら、
「そういうことは、インド人にもよく起こります。若いときは、ガンジーなんて名前も知らないこともあるんですよ。でも年を取るとね、判ってきたりする。ガンジーの素晴らしさがね。それでもっと知ろうとするんですよ。日本人もきっとそうかもしれないです。日本人はほんとにラブリーな人たちばかりです。私達は日本人を尊敬しています。」
私は彼のやさしさをうれしく思った。
ガンジーに知的好奇心を示さないと人間じゃないとは言わない。でも、やはり、ガンジーに知的好奇心を「示す」ヨーロッパ人のほうが、自分のいる位置に近いなあと思った。
ここでなぜ、示すにかぎ括弧をつけたか。。それは、日本人の多くは、知的好奇心を持つ民族であると思う。ただ、示さないのである。ガイドをつけても、そのおばあちゃんが、適当にしか説明してくれなくても、質問しない。そのおばあちゃんガイドの日本語があまり日本語の発音が上手じゃなくて判らなくてもわからないといわない。聞きながらそっと英語を読んだりしている。それは日本人の思いやりである。でもインド人の日本語ガイドおばあちゃんにとっては、日本人は興味がないとしか写らないのであった。
日本人は、英語のガンジーの本を買っていった。これいい本ですよと私が勧めたからでもある。おばあちゃんガイドが言った。でも貴方英語できないでしょ。日本人の男性は答えた。いや読むのは何とかできます。
おばあちゃんガイドは、驚いていた。多分、この場所でおばあちゃんにおとなしく付いてきたのがどうしてなのか理解できなかったのかもしれない。
時には、他人に思いやったのも言葉やジェスチャーで説明しないとわからないということに気がついてほしいと思う麗子であった。
示すこと。。世界とコミュニケイトするための日本人の課題であると思う。
ps、ガンジーの後はその周りの街をぶらついた。面白かった。この周辺の町は、お金持ちの街である。でも完全に分かれてはいない。実に多彩に糸が絡まるように、ホームレス、普通の人、大金持ち、そしてあらゆる宗教の人が絡まりながら住んでいる。ここがボンベイの面白いところであった。==ただし2箇所だけ、まったく分かれている所がある。ひとつはイスラム街。もうひとつはカーストが高いか外国人の住居。ここは出島のように公的にきっぱりと別れてる場所なのだ。通行もできないのであった。
ps、その後、また凄い私の気に入る店を昨日見つけてしまったので、何時間もかけて試着して、もう、こうなったら気に入ったもの、似合うもの、買うことにした。清水の舞台から飛び降りるぞと。3枚購入。ガンジーには申し訳ないが。。といっても私の購入額は72ユーロに過ぎないのだが。。普通の日本人から見たら、わらっちゃうだろうなあ。私は物を購入するときどきどきするんです。これからずっと愛せるかどうかと。
ps、インド人のおばあちゃん日本人ガイドは実に面白かった。インド人ってやっぱし日本語喋ろうともこうも直情的なのかと思った。
まず、やる気がない説明。あんたら興味なんかないでしょというのが丸見え。ほんのコーナーで私が日本人の方日本を勧めてから日本語の会話。
どこに住んでるの。パリです。じゃパリ語もできるの。はい。じゃ、先生しなさい。日本語を教えなさい。日本語は素晴らしい。広めたほうがいい。はあ。でももう日本語の先生には興味がなくなりました。日本語訳なんかやりたいです。たとえばこの博物館のために。ガンジーのことを日本人によく知ってもらいたいのです。駄目よ。今募集してない。日本人興味ないからお金出してまで訳したってしょうがないのよ。いやお金は要りません。無償で訳したいんです。==突然館長にヒンドゥ語でその旨問いかける。速い。
彼女のなんとも唐突で直情的な態度を見て、このインド人は日本語喋っても日本の文化を着ないということを感じました。薄皮さえもきていない。。凄い。
ps、インド人の大金持ちというのはボンベイにいっぱいいるそうである。彼らのお金の使い方が凄い。10人ぐらい人連れて高級料理屋につれてどんどんおごるなんて感じ。湧き水のように金を使うのである。
インド人のひとり==普通の家庭は私に言った。
彼らは、お金を使うのが心底すきなんだ。
タージの横あたりの昔はお金持ち地区だったあたりの住居は廃墟になっているところがいっぱいある。
彼らは家ごと捨てて、まだ開発されていないような僕たちの隣の一区間を買い占めて、塀を作りガードを置き、自分たちの住居にするんだ。
投資のため? いや違うな。多分お金を湯水のように使いたいんだよ。